ガバナンスの不在は今も昔も本邦を苦しめてきたし、苦しめているか

野村監督が亡くなられました。愛妻家として知られ、今風で称するとOniyomeの手のひらで踊りつつ、実はOniyomeを躍らせていたのではないか、と思わせる節、そして結婚生活夫婦円満の秘訣は「諦め」と評する点、まさに男の中の男、旦那の中の旦那、どんぐりのなかのどんぐり、と称賛してもし足りないと思います。

 

我々、どんぐりの木は、故野村監督の「諦め」を胸に、夫婦円満を志し、来世、どんぐりの木となるべく、精進いたす所存でございます。

 

 

と、そんなヨタを書いている時点でこのブログを読んでいるあなたの木が、じゃなくて気がしれないと言いたいところですが、ありがとうございます。読者の皆様に支えられて生きております。ざまあ。

 

というか、そんな話をエントリーしようとしていたんじゃない。この本を足許読んでいるのですが、それらを読んでて、あと最近の出来事等で思ったこと。

 

天皇と軍隊の近代史(けいそうブックス) 加藤陽子

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当方、大学生の頃から、経営戦略論を端緒に、組織の意思決定とか失敗に至る背景、戦略ミス、そうしたことに強く興味を持っていました。野中郁次郎先生の「失敗の本質」から始まって、戸部先生の本や半藤さんとか。

 

あ、良く考えたらそんな本を読むよりも会計士試験の勉強とか不動産が好きなことがあの頃知っていたら鑑定士とか、少なくとも英語もっと勉強しておけばよかった。だから不動産ファンド業界でも末端で安い禄を食っているんですね。どんぐりですね。しにます。

 

話を戻しますが、この本を読み進める中、或いはこれまで色々な日本の幕末から明治、大正そして昭和の終戦までについて論じられた本を見ると、どうも共通する問題として多分日本が抱えていた、そして今も抱えている根本問題は多分「ガバナンスが不在、或いは極めておざなり」ということなんだろうな、と。

 

でも、その背景にはやっぱり理由がありますよね。どなたかが、ツイッターで呟いていたことが興味深くて、所謂「薩長連合」が本当に幕軍に当初勝てると思っていなくて、鳥羽伏見で一旦負けても西側に退いて長期持久戦をやらかそう、と考えていた節がある、というのは面白い話だなあ、と思った次第(真偽のほどは検証しきれていませんが)。

 

でもまあ、結構実態はそうだったのかも、と。だからこそ、明治初期のゴタゴタとか、明治10年西南戦争とその終結まで、明治政府は結構不安定だったと思っています。

 

不安定だった故に何を目論んだか。伊藤博文を中心とした首脳陣は天皇を掲げる一方、これに対抗しうる「権力の中核」が出てくることを排除すべく、組織上仕組んだ、とも考えられるなあと。議会内閣制も所謂政党についてかなり警戒してみている。

 

そうした中で何が起こったか、というと、権力というか命令構造が分散しているような組織になっている。つまり、軍は統帥権天皇が持つ、そして軍はそれをよりどころにシビリアンコントロールを何とか避けようとする。天皇はのちに昭和天皇に代表されるように、基本的に自分自ら実態的に権力を行使しようとはせず、君臨すれど統治せずの英国風を志向していた(様に見受けられる)なかで、更に軍隊は軍で、軍政機関と軍令機関、本国日本と在中の関東軍とで対立し或いは協調していた、というヒュドラ的な構造、そしてガバナンスが結局どこにあるのか良く判らない、ということが制御不能となって、開戦、その後もガバナンス不全が組織のありとあらゆる所に顕在化して、此処まで酷くならずとも、みたいな行動に至る、という所で、日本の問題は独裁者の専制的なそれというよりは「組織におけるガバナンス不全が蔓延したこと」にある気がしています。

 

これ、実は厄介だと思っていて、だれか巨悪が独り(乃至数名)居てそれによるものなら未だしも、結局誰もが「え?俺?」みたいな当事者意識が若干薄いこと。然しながら、一方で、東京裁判において、米国を中心とした戦勝国は特定の個人を戦争犯罪人として裁きますが、これは第一次大戦の時とは異なった特徴的なこと。

 

例えば、第一次大戦後のヴェルサイユ体制において、負けた国は「負けた国の国民全体」が経済的な巨額の負担を追ってその責任を支払う貌にしている。しかしこれはのちに大きな禍根を残した訳だし、実際これの建付けを仮に取った場合、日本側の「負けたらもっと酷い事になる」という狂気と恐怖を煽りかねないことから、多分「特定の個人に負わす」というようにしたのでしょうか。

 

いずれにしても、実際「ガバナンスの不全」であるにもかかわらず、特定の個人(といっても確かに彼らも彼らで非常に問題があったのは間違いないのですが)に負わせて一旦、正式には終いにした(細かな事項では色々日本人全体で負を背負った訳ですけど)。

 

これが、結局のところ、日本において何が問題でそれをどうすべきだったのか、と言う話が、「戦争の残虐性」や「日本(特に軍)の愚かしさ」又は、右派においては「解放戦争であり正しいこともやった」といった様な、話が夫々すれ違う事態になっているのかと。ただ、この点をそればかり論じていては本質的な解決には成っていない。

 

戦後、昭和の体制というのはそもそも戦時下の総力戦体制が土台になっていると言う話は少し事情を知る人であればご存じかと。従って、分断しているのではなく、やはり連続して続いているのではないでしょうか。

 

そうした中で、旧守派が一掃され、若年人口も多く、且つ米国を中心とした西側諸国が防共堤の一つとして日本の価値を見出したことにより、空前の発展を遂げたことは僥倖でした。

 

然しながら、本質的なガバナンスの問題はやっぱり残存していた訳で、それが成長の鈍化、社会の成熟化によってより顕在化したのが平成時代だったと思う次第です。

 

で、平成の「敗戦」では前の時とは異なって判り易く街が焼かれたり兵隊さんが死んだり、民間人が犠牲になったと言う絵面では無く、経済的に追い込まれた結果、所謂「氷河期世代」「ロスジェネ」を生み、そこで一部の者は追い込まれて死んだり、望まない処遇を囲っている訳で、そうした広義では「戦死」したとも言えるかもしれません。

 

で、最近、「戦死したロスジェネ」に対して"軍人恩給"ならぬ再チャレンジの機会を、と脚光が当たっている訳ですけど、根本の問題がする―されている感はやっぱり会って、それは結局の所、根幹にガバナンスがやっぱユルユルってところがあるんでしょうなあ、と。どうするんでしょうね。

 

 

という、便所の落書きの更に取り止めない話でした。